2009年10月10日

その60

それでも歩けるようになりたい一心で、強引に腰をひねるようにした。すると左足が外を回って前方に着地する。自分では前に向かって出したつもりだが、実際は外を回ってしまうので、ブン回し歩行とか、外旋歩行という。この歩き方は非常に格好が悪い。人に見られるのがとても嫌だった。

膝に強い反張もある。歩こうとして足を出す。すると体重を乗せる度に、膝にガチッとロックがかかってしまう。人はわずかに膝を曲げて歩くのが自然だ。膝を曲げた状態で体重を支えることができないと、滑らかな歩行にならない。ロボットのような歩きかたになってしまう。これではとても歩いているとはいえない。異常歩行だから、体のあちこちに悪影響が出る。

常に体をひねって歩くので腰の痛みに悩まされようになっていく。膝がロックされることによる、繰り返し加重からくる膝の痛み。装具無しで強引に歩いた結果、逆くの字に曲がってしまった患者の足の写真を見せられたときは、度肝を抜かれた。

歩くのを止めて車椅子に頼るという選択肢もあるが、どうしても自力で歩けるようになりたいという思いが強かった。痛くなったら休み、回復したらまた歩き始めるという歩行練習に汗を流した。1〜2キロは装具を付けて歩けるようにはなったものの、このブン回し歩行というのはたいそう疲れる。30分も歩けばヘトヘトになり、しばらくは動けない。
 お盆が近づくと病院の一室を借りて田中工事部長立会いの元で、労基所の聞き取りが始まった。

「高田さん、作業日報を見ると休日も定期的にあるし、残業もありませんね、これで労災を認めるなんて、そんなことは通りませんよ」。

連日の残業と日曜日なしで働いていたのに、まったく違う報告書が作成されていることにシゲ愕然となった。スーッと顔から血の気が引くのを覚え、

「え、でも、血圧も昔から高くなかったし、前の現場での定期健診でも何の問題もありませんでした。残業だって毎日遅くまでやってましたし、休みだって正月だけですよ。それに昼休みの時間もありませんでした。飯を大急ぎでかき込んでコンクリ打ちもしていました」

すると、労基所の係官は、

「申請書にはそんなことは書いてありません。それに、仕事が原因で脳内出血を起こしたのなら、どうして他の人もならないんですかね」

とこんな風に言われてしまい、シゲは何も言えなかった。

10月上旬。1通のハガキが病室に舞い込んだ。那覇労働基準監督署からだった。

「労災の認定はありません。この決定に不服があるときは60日以内に異議申し立てをしてください」

と書かれてあった。異議申し立てをしろといわれてもどうしたらよいのか見当もつかなかった。大場病院でも、南筑病院でも、たとえ意義申し立てをしたところで、労災の認定は無理だろうとまるで相手にしてくれない。

半年前に入った生命保険健康診断でも異常はなかった。血圧も正常であった。工事現場での常軌を逸した労働が原因だとシゲが主張しても誰も取り合ってはくれない。

だいたい病院のリハビリというのは最大でも半年ぐらいで終了する。昭和六〇年一〇月になると退院してくれと言われ、シゲはうろたえた。こんな体で退院してもこの先どうしたらいいのだろうと頭を抱えた。
 
佐多建設から社会保険証が届けられたので溜まっていた病院代の清算をして退院した。先の大場病院と南筑病院の一部負担金の合計がおよそ40万円になっていた。生命保険に加入して半年後だった。入院給付金が4ケ月分として60万円下りたのでこれを病院代に当てた。父親の繁吉は、八女の福祉事務所へ倅のことを相談に行った。するとリハビリセンターで訓練を受けたらどうかといわれたという。家族中で途方に暮れていたので、ワラにもすがるような思いで手続きを取ってもらった。
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2009年10月03日

その59

だと沖縄病院では説明を受けた。だから、手術は出来ないんだと言うのがM院長の見解であった。

大場病院の院長は、久留米大学医学部の講師もしているとかで、筑後地方では手錬れの、脳外科医として知られていた。だから、手術を受けたらどうかと繁吉が言った。母や弟妹の意見も同じだった。シゲは、頭の中に管を差し込むという点がとても気がかりである。脳の深部に管を差し込むのであれば、その途中で正常な脳細胞にも触れることになるかもしれない。医師の手元が狂って正常な脳細胞が傷付くことだってありうる。手術に失敗して寝たきり状態になる可能性だってあるかも知れない。夜中にベッドの上でそういうことを考えていると、自然にまぶたの裏から熱いものがにじみ出、次から次へとあふれてくるのをシゲはこらえきれなかった。

麻痺は痙性が非常に強い。足は棒のように伸びたまま、硬直して全く動かない。手もL字型に曲がり指はウンともスンとも言わず、握りこぶしの状態だ。左半身には感覚が全くない。手足が付いているという実感すらしない。このままではたぶん満足に歩けるようにはならんだろうと医者は言う。

理学療法士の意見も医者と同様であった。若いので寝たきりになることはないだろうが、重い装具を付けて、体をひねるように歩く異常な歩行になる、というのである。ひょっとしたら車椅子になる可能性だってあると告げられシゲは肝が萎えた。

 手術を受けるか止めるかという決断ではずいぶん悩んだ。沖縄の病院代の支払いはとりあえず現金で支払うということになっていたが、それ以降のことは労災にするのか私病とするのかで揉めていた。中竹土木からは工事部長の田中さんが。シゲの代理人には弟の金次がなった。

繁雄は二流の夜間大学ではあるが、アルバイトしながら自力で卒業した。今は久留米の小さな商社に勤務し、所帯も持っていたので高田家の交渉人に抜擢された。そして

「労災の申請は元請にしかできないので、中竹土木さんに労災の申請をしてもらうように頼んで見る」

と田中さんは言った。労災が認定にならないときは、佐多建設はシゲに社会保険を作り、それで病院代を支払う。従って労災の結果が出るまでは入院費の支払いは待ってもらうこととした。

シゲは結局、手術の承諾書にサインをする勇気がでなかった。そして、リハビリにかけようと決心したのである。たとえ血の小便を流そうとも、訓練に耐え、自分のことは自分でできるようになろうと、心の中で誓いを立てた。

そういうわけで次はリハビリ専門病棟を持つ、国立療養所南筑病院へ転院することになった。昭和61年4月2日のことである。南筑病院は、福岡県南部にあり、神経筋疾患の専門病院として知られている。シゲのリハビリ担当となったPTの三根先生は手足がガチガチに緊張しているのを目の当たりにして、腕組みをしたまま、

「うーん・・・」

と黙り込んでしまった。しばらく経って、

「根性出さんとしかたないね。明日から9時になったらここに来てください」

専門のリハビリ病棟を備えている病院なら治るかもしれないという、かすかな期待を持っていたので、具体的な説明がないことに不安とあせりを覚えた。

シゲの足は棒足だ。足全体が異様に突っ張って膝が全く曲がらない。足首にも、内反と尖足という二次障害が重複している。足の裏を地面につけることができないのである。これを矯正するために、短下肢装具というものを作った。プレス工場などで作業員が履く、安全靴に鉄製の支柱を付けたような頑丈な物である。この装具を付けて歩く練習をした。しかし、膝が曲がらないので、足の振り出しが出来ない。
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2009年10月02日

その58

やがてタオルは股間から腹部を拭き胸に近づいた。好恵の顔がぐっと近づいた。丸みを帯びた瓜実顔で鼻も小ぶりである。唇には赤い紅が引かれ、プックラとしてサクランボのようである。

タオルが首筋にあてられた。シゲは目をつぶってひんやりとした心地よさに浸っていた。冷たい感触を顔面に感じて目を開けると、そこには甘い息を吐きかける綺麗な顔とサクランボがあった。シゲの唇とほんの10センチの距離である。ヒョイと顔を上げてシゲはサクランボを食ってしまった。

「ま、」

好恵は顔を上げてそう言ったまま清拭を続けた。病室の中には常夜灯がつき、脳梗塞で倒れたという老人につけられているタン吸引機のシュッという音が聞こえていた。

次の日になると、会社から連絡を受けた父親の繁吉と弟の繁雄が様子を見にやって来た。

「兄しゃん、何も心配せんでよかばい。オリが会社と、話しばしとくけん。後で大場病院に転院するごと手配しとくけんね」

「おお、ほんなこつぞ。仕事中じゃけんね、労災にしてもらうごつ、繁雄が言え」

勤務中に現場で倒れたので、当然、治療は労災保険でしてくれるとばかりに思っていた。しかし工事部長の田中さんが言うには、

「これは高田さんの病気じゃから仕事とは関係なかぞ、医者もそげん言うちょる」

とまくしたてた。それに対して繁雄はこんな風に切り返した。

「でも、出張先で、それも仕事中に倒れたとですし、会社の都合で連れていった以上は、元気な体で行ったんだから、元の体にして連れてかえすのが筋じゃないか」

沖縄の病院代はとりあえず会社が支払う。そして病状が安定しだい福岡へ連れて帰る。今後のことはおいおい話し合う。そういい残して繁吉は繁雄に向ってアゴをしゃくるとガニ股で病室を後にした。

8日目になるとリハビリが始まった。好恵が車椅子を押して訓練室まで連れて行ってくれた。白い服の男がいた。初め、鍼打ちの先生だと思っていたが、PTというリハビリの先生だと言われて吃驚した。リハビリという言葉は知っていたが先生を見るのは初めてだった。リハビリはたいそう苦しいものだと、いつかテレビで見たことがある。色々と体の状態を調べたり問診があって30分ほどで終了した。

病室に戻る途中で尿意を催したのでトイレに入った。導尿の管も取れている。久しぶりに放尿の気分を味わいたかった。しかし、まだ立てないので座って小用も足さねばならず、個室に好恵と二人で入った。抱きかかえられていると、ちょうどキスするのに都合の良い姿勢になったのでそのまま唇を重ねた。股間に熱いものを感じた。シゲが好恵の胸を触りだすと慌てて押しとどめた。怒っているかと思ったがそんな風には見えなくてほっとした。

10日目になると退院の許可が出た。血圧その他も安定している。飛行機に乗っても良いという診断書も出た。会社から人がきて転院するための手続きをしてくれた。いよいよ退院するという朝、好恵は自分の車でシゲを那覇空港まで送ると言ってくれた。そして飛行場で別れるとき小さな紙袋を渡してくれた。

「サンドイッチを作ったので、飛行機の中で食べてね。それじゃあ、リハビリがんばって」

出発ロビーのゲートでいつまでも手を振っている好恵の姿が印象的だった。

会社の人が福岡空港まで付き添って、出迎えに来ていた弟へとバトンタッチしてくれた。転院先は自宅から1キロほど離れた大場脳神経外科病院である。ここでは脳の中にできた血腫を取り除かなければ手足は動かないだろうと言われた。

頭の中を手術するって、いったいどういう風にするのかと思い、シゲは医者に尋ねた。

「まずコンピュータで正確に出血の部位を割り出し、ドリルで頭蓋骨に穴を空け、細い管を差し込んで血腫を吸い出す」

というのである。これで血の塊に圧迫されていた神経が開放され、手足が動き出すかもしれないと説明を受けた。では、元通りの体になるかというと、それはなんとも言えないと院長は腕を組む。
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2009年09月30日

その57


 シゲは三四歳のとき脳内出血で倒れた。一九八五年一月一六日のことである。沖縄の架橋工事の現場だった。型枠大工たちと車座になって昼の弁当を使っていると、突然目の前が暗くなり、気分が悪くなったので横になった。異常を察した仲間が抱き起こしてくれたが、自分の足で立つことが出来なかった。驚いた仲間たちは、シゲを工事用の箱バンに乗せ、近くの診療所へと運んでくれた。
 居合わせた若い医師は眼をペンライトで覗き込むと

「一から一〇までを数えてみなさい」

と言った。意識はあったので普通に数えることが出来た。

「ここでは何も出来ないので専門の病院へ行ってくれ」

と言われ、救急車で転送された。浦添市のM病院である。直ぐにCTが撮られ、脳内出血を起こして体の左半分が麻痺していることがわかった。

ベッドに寝かされると若い看護婦がやって来て、ナッパ服を脱がせ、ズボンをハサミで切ってしまった。股間から亀頭をつかみ出すと、理科の実験でもするかのような顔で、尿口から細いビニールの管をアッという間に挿し込んだ。これは導尿といって、排尿障害に対する処置である。尿は管からビニールの袋へと流れる仕掛けだ。

脳神経外科病棟の大部屋に寝かされ、二人の付添婦が交代で、シゲの面倒を見ることになった。一人は石垣島出身で60歳のオバア。もう一人は36歳のきれいな未亡人好恵だ。病名を脳内出血だと医者から説明を受けた。

初めて聞く病名である。シゲは自分が置かれている深刻な状況が良く理解できないでいた。左の足が麻痺して、付いているのかいないのかもわからない。近代医療の進歩はすさまじいと聞いている。半年も入院していれば治るだろう。そう深刻には考えずにいた。退院したら、失業保険でも貰いに行くかとノンビリしたことを思っていた。

好恵はシゲと歳が近いことや同情もあってか親切である。知り合いが米軍の基地で働いているとかで、アメリカ製のチョコレートをお土産に持参してくれた。好恵には20歳になる娘が大和の大学にいるのだと語った。

「高田さんも大和に帰りたいでしょう」

「・・・うん」

オバアと好恵の会話に時々「大和」という言葉が登場する。最初は何のことかと思っていた。やがて、昔、琉球人たちが倭人の事を大和中(やまとんちゅう)と呼んでいたことを知った。

病院に担ぎ込まれて1週間目。その夜の付き添いは好恵である。ベッドの横にゴザを敷いて仮眠している。シゲは眠れずにゴソゴソしていた。寝返りを打ちたいけど右手は縛られ、点滴がついている。昼間も同じ姿勢で寝たままだから眠れない。

「眠れないの、体でも拭こうかね」

好恵は小さな声でそういうとバケツを持って出ていった。5分ほどで帰ってくるとベッドを囲っているカーテンをそっとあけた。シゲのパジャマを脱がせた。洗面用具やパジャマなどは現場監督がそろえていた。タオルを水で絞って足元から拭き始めた。だんだんタオルが上がってきて股間に達した。ポンチにはビニールの管がつけられだらしなくうなだれている。
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2009年09月19日

その57

シゲは移動式クレーンの免許を取得するとこにしてしばらく、久留米の建設機械専門学校に通うことにした。4トントラックに3トン加重のユニッククレーンを操作する機会が多いので、資格を取っておいた方が良いと思った。

というよりも無資格でクレーンを操作するのが怖くなった。学校はシゲの実家から近い。ペコちゃん経営の喫茶店「サンラビ」の眼の前にある。授業料が12万円必要だったが、これは田中工事部長に訳を話して佐多建設から借りることにした。そう言うことなら費用は全額会社が負担して良いと部長は言ったが、借りを作るのが嫌でシゲは断った。毎月2万円ずつ給料から天引きしてもらうことにした。

1854年11月、
2週間学校に通って移動式クレーンの免許を取得したシゲは土曜日の午後4時ごろ鳥栖の現場へ顔を出した。ちょうど田中工事部長がいて、

「おい、今から湯布院にいくぞ、俺の車を運転してくれ。これは仕事ぞ。日当も払う」

「えー、なしてですか、自分で運転すればよかじゃなかですか?」

そこへ現場監督の中村さんがやってきた。

「それが部長は今、免停中じゃけん、高田兄ちゃん、運転ばしてくれや、今、湯布院の現場で緊急事態が起きとる」

なんか急ぎの用があるらしいので断るわけにもいかず、シゲは田中工事部長の自家用車クレスタの運転席に座ってハンドルを握った。湯布院へはこれこれ2時間もかかったろうか。着いた時はもう夜の8時だった。宿舎で飯を食って温泉に入って寝た。

あくる日は日曜日である。お目付け役の道路公団の職員は自宅に戻って誰もいなかった。そんな中、元請けの墨出しの間違いで、橋脚のフーチングという下駄の部分を施工図通りに鉄筋を組んでコンクリートを打ち込んで、脚本体を上に伸ばすため型枠を組んだら型枠から鉄筋がはみ出すので、はみ出た鉄筋を正規の場所に移植するという作業を隠密裏にやった。これはあきらかに違法行為である。シゲは気になって帰りの車の中で、

「あげな事ばしてよかとでしょうかね」

「ああ、ほんな事なあ、しかし、元請けがやれと言うんじゃけん、俺ら下請は従うしかなか」

小さな手抜き工事は工事現場のあちこちで行われていたので、シゲは世間とはそうしたもんかと思った。

「おい、高田兄ちゃん、12月から沖縄の現場に行ってくれんか日当は弾むぞ」

「えー、沖縄、そらまた遠いですね。嫌になっても簡単に帰って来られんけん、ヤッパ止めときます」

「そげん言わんな、行ってくれんか食いっ放しで7000円出すわあ」

…しかし、なあ、この人の言う事はあてにならんもんなあ。金を出すち言うて、いざ支払の段になると約束の金額より安く払う金には汚い男だという噂だ。孫請けの大工や鉄筋屋、人夫も過去に泣かされた者は多いという。が、しかし、シゲは断りきれずに首を縦に振った。この頷きが後々シゲの人生に大きな影響を与える事になる。


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2009年09月18日

その56

この現場は5ケ月で終了した。ここではケンチャンに払わねばならない呉服の仕入れでの債務40万円を返すことができた。その他に金融公庫から借りていた200万円の借金は、逐電した倅に代わって、父親の繁吉がわずかな山林を手放して後始末を付けていた。

借金もなくなったのでシゲはまた当条のアジトで寝泊まりするようになった。借金をケンちゃんに払っても10万円ほどの現金が残ったので、久留米の自動車販売店でエンジンは動くが車体がボロボロのサニートラックを見つけ5万円で買った。このボロ車を転がして久留米のパチンコ店に行くと、偶然にも阿部信三と再会した。

阿部は小倉の現場で親切にしてもらった佐多建設の和田という現場監督が佐賀県城原の高速道路の現場にいるので、そこで働いていると言った。久留米の親戚を頼り、岡山から家族を呼び寄せアパートを借りて現場まで通っているというのである。

シゲがブラブラしていると話すと、今常用の人夫を捜しているので城原の現場で一緒に働かないというので、佐賀平野の端にある現場事務所を訪ねて和田と面会し働かせて欲しいと申し出ると、

「ああ、そりゃあよかった。ちょうど人数が欲しかったので昼飯付きの日当6000円でよかなら明日から来てくんしゃい」

シゲは30歳になったばかりで車の運転もできるし、昔ガンガン屋(自動車板金)にいてガス切断機が使える。シャッター屋にいたときは電気溶接もしていた。高架橋を専門にしている佐多建設の現場では欲しい人材なのだという。人夫と言えば高齢者が多く車に乗れないしガス切断や電気溶接もできない。それにコンクリート打ちなどの重労働は負担が大きく無理が利かない。若手の人夫はどこの現場も欲しがっているようだ。こうしてシゲは当条のアジトから佐賀県神埼の城原の現場までオンボロのサニートラックで通うことになった。

城原の現場川に掛けるのは長崎自動車道の高架橋である。しかし、ここも半年で工事が終了した。次の現場は鳥栖の牛原というところにあった。やっぱ長崎道の高架橋工事だ。鳥栖の現場監督は中村という40年配のタクシー運転手上がりの馬面の男である。

シゲは若いから便利屋としてコキ使われた。ユニック(トラッククレーン)の運転からゴモクゾの片づけから足場の組み立て、支保工の組み立て、コンクリートの打ち込み、左官工事、土木作業全般、あげくのはてにNHK福岡のアンテナ塔解体工事では社員が足りないからと。臨時の現場監督として赴任させられた。

このときのラジオアンテナ塔解体を一ケ月で手際よく終了させ、400万円の黒字を計上した。シゲはマイカーを現場へ行くのに使った。工事部長の田中さんが車の使用手当を出すと言っていたが支給されて見ると約束の半額しかなかった。

これに味をしめた田中さんはシゲをに武雄バイパスの現場に社員として赴任してくれと命じた。シゲは自分には高架橋の現場監督は荷が重いから常用人夫に戻してくれと頼んだが、社員が足りないので、どうしても臨時の現場監督で行ってくれと懇願され断りきれなくて頷いた。

武雄ではまだ飯場ができてない。しょうがないので、シゲは当条のアジトから通うことになった。鳥栖からよりも在所から行った方が近いい。と言っても片道1時間半はかかる。この工事は悲惨を極めた。鉄筋屋も人夫も人数が全然足りない。20人役の所を10人でやったりひどい時は5人でやったりしていたので、

「人数ば早う揃えろ」

元請けからは毎日雷が落ちた。しかし、どこの建設業者も九州自動車道関連の工事を山ほど抱えており、作業員を他に回す余裕などまったくない状態が続いていた。家を朝の5時には出て帰ってくるのは夜の10時過ぎという連日の突貫工事である。

ある朝、シゲは目眩がして起き上がれない。だがしばらすると起き上がれた。それでもまだフラフラするので半日休みをもらって病院にいった。自宅から2キロ離れた大場脳神経外科である。院長は筑後地方では手練の脳外科医として知られている。この院長の診察を受けたが何の異常も見られなかった。疲れだろうということでまた仕事に戻った。

2ケ月ほどすると武雄の現場にも正社員が赴任してきたので、やっと難儀な役から解放された。それでまた鳥栖の現場に戻って常用の人夫に戻れた。
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2009年09月15日

その55

兄しゃん、3階が寝るとこやけんね。一番奥の下のベッドが空いとるけん」

3階に上がると段々ベッドがズラリと並んでいる。この日は汗臭いベッドに倒れこんで泥のように眠った。
明るさを感じて目を開けると周囲のベッドからむさ苦しい男たちがゴソゴソと身仕度を始めた。シゲがキョロキョロしていると向かいのベッドの男が、

「あそこにある作業着と長靴ば使わんね」

と隅の方に置いてある段ボール箱を指差した。
箱の中にはヨレヨレの汗臭いナッパ服がいくつも入っていたので、適当な物を選んで身に付けた。長靴も作業着も誰が使ったのかもわからないし。臭かったが、そんな事を言っている余裕もない。皆と一緒に食道に降りて丼飯に卵をかけて流し込んだ。時計が6時50分を指した頃、モジャモジャ頭にヘルメットをかぶって地下旅を履いた男がやってきて名前を呼び始めた。

「高田繁一、4号車、渡辺班」

皆がゾロゾロ階下に降り始めたのでシゲも着いていって4号車と書かれた泥だらけのハイエースに乗った。車は渋滞する天神を抜けると福岡の西区方面を目指した。海岸沿いを小一時間も走ると造成地が見えてきてその入り口で車が止まった。プレハブ小屋から一人の男が出てきて皆の前でこう言った。

「今日は排水路の土管の設置です。みなさん、事故のないようにお願いします」

訓示が済むと皆がゾロゾロと奥の方へ歩き出した。工事現場に着くと道具箱が置いてある。それぞれ左官コテやスコップなどを取り出して作業にかかった。シゲがモタモタしていると、訓示をタレた男がやってきた。

「そこの人、モルタルば錬るけん、ネコで砂ば運んでくれんね」

「えー、ネコちゃなんですか」

「ほらほら、そこにあろうが、一輪車たい。早く砂ば運ばんね」

これがシゲの土木作業員デビューとなった。夕方5時まで働くと仕事は終わりだ。7〜8名の仲間と一緒に箱バンに乗って元来た道を作業員宿舎へと帰っていく。だいたい6時前後に着くから事務所へ行って1800円の日当をもらう。近くの銭湯に行ってから食道へ行く者もいれば、そのまま食道へ直行して飯を書き込む人。それぞれである。

それから一ケ月ほど日雇い労務者の群れに交じっていたが、一日働いて手元に残るのは1000円程度。この金も2〜3日分貯めて日曜日になると皆に誘われて福岡競艇に行きスッテンテンになった。

そんな時、岡山から夜逃げしてきた阿部信三と親しくなった。信三は岡山に女房と小さい子を残し、長男の高校一年になる息子を連れてマイカーで博多へ逃げ、人夫出しに転がり込んできた。それに佐々木という50年配の男、長崎で自動車の解体業をしていた池中というこれも50年配の男も同じ日に入ってきた。この頃になるとシゲは車の運転をして仲間たちを連れて現場にいくようになっていた。

阿部親子、佐々木、池中、これにシゲも加わって博多駅裏の人夫出しを逃げることにした。いつまでもこんな暮らしはできない。せめてどこかの飯場に潜り込んで、常用の人夫になろうというのである。そうすれば日当をピンハネされることもない。日給は5〜6千円にはなるはずだ。

阿部オヤジが大豊建設の現場監督に雇ってもらえるように話をつけたというので、それにみんなが乗ったというわけだ。建設会社が人夫出しに頼むと一人頭1万円以上を取られるので、作業員を直接雇った方が安く済む。しかし、こう言う事はバレると喧しくなるので、わからないようにしなければならない。風呂に行く振りをして宿舎を出て、阿部の車に全員乗るとイタチのように早く逃げた。

阿部が運転する車が止まったのは北九州小倉の団地造成の飯場だった。ここで3日ほど働いたが待遇が違っていたので、日当ももらわずに逃げた。阿部はもうひとつの佐多建設にも渡りをつけていたのである。今度の現場は九州自動車道のインターチェンジの工事だ。この佐多建設の下請けに山本という型枠大工の棟梁がいて大工の手元を探していたのである。日給は1万円を弾むというので、直ぐ飯場に転がり込み一同大いに張り切った。
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2009年09月14日

その54

朝から喫茶店にたむろし、スポーツ新聞を読みながら福岡ボートの12レースは6号艇がデンデン◎ばい。4号艇が対抗の〇じゃろう。とああでもないこうでもないと講釈をタレるマスターの元へはギャンブル好きが次第に寄ってくるようになった。

それからのシゲは次第に金に困るようになっていく。競艇の資金作りに古本を売りに行き、質屋にも通った。サラリーマン金融というのができたと聞いては訪ねてみたが、自営業や無職では貸せないと言われた。自堕落な生活を送っていると金に詰まってきた。

スポーツ新聞の求人欄を見ていると
「日当1万円可・ちり紙交換員募集」
と広告が載っていた。シゲは電話をかけて面接に行った。免許証を見せるとノートに住所と電話番号を書けと言われ、即採用になった。ちょうど夏場だったので、スイカの販売だと言われて戸惑った。夏は西瓜で、他の季節がちり紙交換だと聞かされた。西瓜は利益が大きいという。一日だけ先輩の軽トラに乗せられて仕事を教えてもらう。

次の日からシゲは一人で西瓜を売って回った。

「ご町内の皆様、こちらは西瓜の販売カーでございます。甘くて美味しい鳥取のスイカはいかがでしょうか。西瓜、西瓜、西瓜の販売カーでございます」

テープレコーダーに吹き込んだ音声を軽トラに付けたスピーカーで流して回るのである。ど素人でも1日5000千円〜8000円ぐらいになった。しかし、お盆を過ぎると西瓜のシーズンは終わりだ。9月上旬までちり紙交換をしたが要領がわからず稼げない。小銭をかき集めて唐津競艇に行ったがスッテンテンになった。唐津から博多駅までバスが出ているのでこれに乗った。博多駅で降りた時ポケットには80円しかなかった。ズボンの尻ポケットに入れていた九州スポーツを広げると、「毎日現金5千円日払い・作業員急募」の文字が飛び込んだ。シゲが電話をすると直ぐ迎えに来るからそこを動くなと言われた。

15分ほどすると目の前に緑色の箱バンが止まった。色の黒い一見して土木作業員とわかる男が運転席から顔を出して声をかけてきた。

「電話の人な?」

「はい…」

後部座席のドアーが開いて30歳ぐらいの男がこういった。

「乗らんね」

混雑する博多駅前から裏へ回って10分ほど車が走って3階建ての小汚いビルの駐車場で止まった。男たちが車から降りて2階へ向かってさっさと歩きだしたのでシゲも続いた。入口にカウンターがあって40年配の角刈りの男が座っていた。

「お帰り、お疲れさん」

そしてシゲの顔や体をジロジロ見ながら、

「日当は5千円。飯代と寮費ば引いて仕事が終わればここで2000円払うけん。この条件でよかならそこの帳面に住所と名前ば書かんね」

カウンターの端に汚い帳面があったのでシゲは住所と氏名を書き込んだ。側から角刈りが奥に向かってアゴをしゃくった。

「食道に行って飯ば食わんね。ベッドはどこか空いたとこを使うとよか。作業着と長靴はその辺にあるとば使いない」

カウンターの向こうが食道になっている。コンパネで作ったテーブルと工事現場で使う道板で作った長椅子が2セット置いてあり、数名の労務者が焼酎を飲んだり飯を食ったりしていた。テーブルの上には大きな炊飯器とみそ汁の入った大鍋と茶碗の入った籠が置かれている。そばには丼があってタクアンが盛られている。シゲは空腹だったので飯を大盛りにして味噌汁とタクアンで食っていると、
一人の男がこう言った。
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2009年09月12日

その53

すんまっしぇん、遅くなりまして」

「アッチのテーブルに移ろうか」

ケンちゃんが促した。

「すんまっしぇん、すんまっしぇん」

緒方は何度もそう言って愛想笑いを浮かべた。別に悪いことをしているわけでもないのだから。謝る必要はないのだが。この地方では挨拶代りの言葉になっている。

「あ、マスター、私にブレンドコーヒーばお願いします。ケンちゃんもシゲちゃんも何か飲まっしゃれんですか?」

「緒方さん、車ば頭金無しのオール月賦で売ってもらえるとはほんなことですか?」

「うん。よかですよ。普通は頭金と諸経費ばもらうとですが。あーた達なら信用しとりますけん。なーんもかんも一切合財オール月賦でよかです」

「諸経費も込みじゃろう。何でそげんことできると?」

「うん、それはうちが仕入元には丸専手形ば切りますけん。簡単に言うとそういうことです。その変わり金利がちょっと高くなりますたい」
「ふーん。そんならカリータのハードトップ・スーパーデラックスば買うと毎月の支払はいくらなりますかいの?」

緒方はカバンからカタログと計算機を出して算用を始めた。

「えーっと。36回払いで56000円になりますね。最終的な支払額は2016000円です」

「えー、カリータが200万にもなるとね。カタログ価格が138万円ばい。諸経費が18万円として…、金利が456000円にもなるばい」

シゲは金利の事などどうでもよかった。それよりも頭金無しでも車が手に入りそうな事で有頂天になっていた。ポンコツの軽自動車ならいざしらず。1600CCの精悍なイメージのカリータハードトップのスーパーデラックスが手に入るという夢のような出来事である。

シゲは車を手に入れた。当座の運転資金はケンちゃんが保証人になってくれたので、国民金融公庫から200万円を借りることができた。
こうしてシゲは呉服の担ぎ屋となったのである。しかし、いざ独立してみると思うように売上は上がらないので1年もしないで挫折した。

ブラブラしていると、同じ当条出身の石田さんがうちで働かないかと誘ってくれた。大将は寝具や雑貨を移動販売してまわるのが仕事だ。最近呉服も扱うようになったのでシゲにお座敷をかけたというわけだ。
大型の箱バンに寝具や雑貨、呉服類を積みこんで田舎や離島で展示即売会を行うという手法である。壱岐、対馬、五島列島、聞いたこともないような九州の島々を巡る行商は面白いものではなかった。ここも半年で辞めてしまった

この頃、友達のアパートに転がり込んだ。八女郡広川地区に清楽という集落がある。ここにシュウちゃん(野口修三)という中学の同窓生がる。当条のカズナリとつるんでいたのでシゲも面識があった。暇つぶしにアパートを訪ねてそのまま居候になった。

藤源で呉服の仕立物をたのんでいた久恵と由紀子という二人をシュウちゃんに紹介し、4人で交際を始めたのが居候になるきっかけである。大型ダンプの運転手をしているシューちゃんには女っ気がないので大喜びした。久恵の方が器量よしで、これはシゲが付き合うことにした。

シューちゃんも久恵に気がある様子だったが…。彼女らの仕事部屋でおしゃべりしたり、屋台に飲みに行ったりして遊んだ。やがてシゲは久恵と恋に落ちた。久恵には親の決めた婚約者がいたがシゲと長崎に駆け落ちしたが失敗した。

それからのシゲは呉服の売掛金を回収しながらペコちゃんの経営する喫茶店、サンラビに入り浸るようになった。ペコちゃんは無類の競艇好きである。彼に誘われて行った唐津競艇で30万円儲かった。ビギナーズラックがきっかけでギャンブルの味を覚えてしまった。
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2009年08月02日

その52

藤源の経営は最悪の状態に陥った。シゲの売り上げは三分の一を占めていた。給料日になっても分割でと奥さんが言うので、出勤するのを止めた。アジトまで社長の使いがやってきて出勤を懇願したが応じなかったので自然退職となった。掛け金の未納が長期に渡るというので、
失業保険・厚生年金の手続きはいっさいなかった。シゲの脱落で集金は激減し、3ケ月後には不渡りを出したと元、同僚が知らせにきた。

シゲはアジトに籠り自堕落に暮らしていた。破れ小屋のような部屋だが、家賃はいらないし、飯は親が食わせてくれた。ペコちゃんの喫茶店「サンラビ」までの距離はおよそ2キロだ。北ん切り集落の裏手に広がる田ん中の農道をテクテク歩いて暇つぶしにいくのが日課となった。サンラビのドアーを開けるとカランコロンと鳴った。カウンターに座った。
「お、いらっしゃい、シゲちゃん」

「うん、マスター、ブレンドとトースト」

カウンター越しにペコちゃんがケトルをのの字に回しながらお湯を注いでいく。ぷーんと香ばしい匂いが漂ってくる。

「シゲちゃん、もう呉服の仕事は辞めたとね」

「うん、もうあそこはつぶれたげな」

ブランチしてるところへ見覚えのある客がやってきた。

「おろ、ケンちゃん、どうしたとね」

藤源の元同僚のケンちゃんである。歳はシゲよりも5つ歳上だ。売上は常にトップクラスで藤源を支えていた人物である。

「会社が潰れたけん、今、一人でボチボチ商売ばしよるたい」

「ふーん、そうね。仕入やら大変やろうたい」

「うん、丸野が委託で商品ば出してよかち、言うてくれたけん、錦紗ば扱いよるたい」

丸野商店は久留米では老舗の呉服卸問屋である。博多帯と大島紬を主に扱う藤源の仕入れ先は博多の問屋が主だった。大島紬はおしゃれ着なので冠婚葬祭と言った正装の場では着れない。その点、博多帯もおしゃれの要素が強いので正装には向かず、もっぱら紬などのおしゃれ着の帯として用いられる。留袖、振袖、付け下げ、と言った正装用の着物は錦紗と言って加賀友禅や京都の西陣織が多くも散られる。おしゃれ着の大島や博多帯を扱っていても、子供の卒業式に着ていく羽織はないか。とか。娘に付け下げを一枚持たせたいという客がいる。

そういうときに丸野で商品を借りてから客の自宅を訪問し、談笑しながら商談をしていく。付け下げ1枚10万円とし、これに裏地と仕立て代が2万5千円かかる。上代(売値)10万円の着物の仕入れ値は委託で7万円。買い取りだと4万円〜5万円ぐらいだ。

付け下げの仕立て上がり12万5千円で売れれば3万円が利益となる。だいたい呉服の商売では上代の半分〜4割が儲けとなっている。問屋の方も全くの見ず知らずの人物と取引する場合には、商品を貸し出すときに補償金を積まねばならない。しかし、ケンちゃんのように藤源の時から出入りして、その人物を信用しているときには補償金なしで商品の委託販売に応じる。問屋としても販路の拡大は常に意識していた。

「なあ、シゲちゃん、俺と一緒に仕事ばせんかい。最初は委託販売でボチボチ始めればよかたい。資金はコッキン(国民金融公庫)から借りられるばい。役場の商工会で申し込むとよか」

「ばってん。車も持たんし…」

「車なら緒方さんに言うと頭金無しのオール月賦で売ってやらすばい」

緒方とは福岡トランペット販売久留米営業所の係長である。藤源に車を何台も納車していて。シゲもケンチャンも顔なじみなのだ。

「俺のクラウンも毎月7万円のオール月賦で買うたよ」

シゲは車が頭金無しのオール月賦で手に入ると聞いていても立ってもいられなくなった。福岡トランペットに電話をかけてみたが緒方氏は営業に出ているという返事である。

「呉服屋の藤源にいた高田が、車が欲しいので直ぐにサンラビまで来てほしいと伝言してくれ」
と事務員に頼んだ。
電話をしてから1時間ほどで真っ黒に日焼けした緒方が現れた。
posted by 留蔵 at 07:38| Comment(0) | 45〜54 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする